私が歯列矯正を始めたのは社会人になって数年経った頃でした。長年のコンプレックスだった歯並びを治せると心躍らせていたのも束の間、最初の壁は「食事」でした。特にワイヤーを装着して間もない頃は、歯が浮くような痛みと装置の異物感で、まともにものが食べられませんでした。まず驚いたのが、これまで当たり前に食べていたものが、こんなにも矯正装置にとって脅威になるのかということです。大好きだった硬いおせんべいはもちろん、リンゴの丸かじりも夢のまた夢。最初に挑戦して見事にブラケットを一つ飛ばしてしまったのは、フランスパンの端っこでした。先生からは「硬いものは小さくして」と言われていたのに、つい油断してしまったのです。それ以来、食べ物に対する警戒心が一気に高まりました。キャラメルやガムは論外として、意外な伏兵だったのが、細長いパスタや繊維質の多い野菜。ワイヤーの間に見事に絡まり、食後の歯磨きは毎回格闘技のようでした。特に外食時はメニュー選びに本当に苦労しました。友人と食事に行っても、自分だけ食べられるものが限られていることに少し落ち込むこともありました。しかし、人間は適応する生き物です。徐々に、どうすれば美味しく、かつ安全に食べられるかという知恵がついてきました。肉類はひき肉料理を選んだり、野菜はポタージュにしたり。麺類も細かく切ってから口に運ぶなど、涙ぐましい努力を重ねました。そんな中で嬉しかったのは、同じように矯正をしている友人と情報交換できたことです。「この店のこのメニューなら大丈夫だよ」とか、「この調理法なら食べやすいよ」といった会話は、何よりの励みになりました。今では、矯正中の食事にもすっかり慣れ、むしろ以前より食材をよく噛み、味わって食べるようになった気がします。食べられないものがあるからこそ、食べられるものの有り難みを感じ、工夫する楽しさも知ることができました。矯正が終わったら、真っ先にかぶりつきたいものをリストアップするのも、密かな楽しみの一つです。